生き物である以上いつかは命尽きるのは仕方のないことであるが、いざ別れがきてしまうというのは、なんとも寂しいものである。
自分の人生に影響を与えた方であれば、それが実際に会ったことがない方であってもホント寂しいね。
1月15日日曜日の朝、早朝に起きてPCを立ち上げたら高橋幸宏氏が亡くなったというニュースを目にした熊太郎なのでした。
高橋幸宏と熊太郎
高橋幸宏氏(以降は幸宏よ呼ばさせていただきます)の音楽に最初に触れたのはもちろんYMOである。
多分1979年。小学校高学年の熊太郎にやってきたインベーダーゲームとテクノポップ。
どちらもクラスの男子は多かれ少なかれ興味を持っていたのではないかと思います。
YMOの3人の中でDr.&Vo.の幸宏、最後の音を母音と分けて歌う幸宏の歌い方、皆真似していたな。”遥かな道を越えぇーてぇー”ってな感じでね。
散開コンサートが開催されたのは1983年末。熊太郎が中学3年生で受験真っ盛りの時。高校に入学すると、YMOフリークが何人もいてね、散開ライブビデオを持っている同級生がいて、その友達の家で一緒に見た記憶があります。熊太郎は映像は持っていなかったけれど、ライブアルバム「After Service」はもちろん買っていました。
YMO散開後
YMO散開後、熊太郎はジャパニーズFusionの道、すなわちカシオペア&スクエアあたりにどっぷりハマり始めるのですが、そんな中、YMO活動中評価していなかった「BGM」や「テクノデリック」なんかを聴いていましたね。(高校生として決して明るい音楽道ではないねw)
YMO3人それぞれのソロアルバムが1984年に発売され、友達と貸し借りしながらカセットテープで聴きまくっていました。すなわち、以下3つのアルバムです。
- 「音楽図鑑」坂本龍一
- 「Wild and Moody」高橋幸宏
- 「S・F・X」細野晴臣
1はレコード、2は後年CDで購入。3は友達から借りましたね。
幸宏さんのアルバム「Wild..」の「The Price to Pay」という曲が今でも大好き。
金持ちやスーパースターになりたくない。君といたいんだ、っていうような曲。熊太郎高校一年生の時に聴いていた曲です(笑)
1984年に登場したCASIOのCZ101というシンセサイザーのCMキャラとして起用されていた幸宏さん、ヤマハのDX7全盛の時代、新たに登場したCASIOのシンセに(弾けるわけでもないのに)興味を持っていた熊太郎。今でもそのカタログは家に保存してあります。
1985年 幸宏は「Once a Fool」というアルバムをリリースします。
熊太郎としては「仕事を終えた僕たちは」という曲で「僕のルノー見つけたら」というような歌詞にすごくフランスを感じたものです。(その後熊太郎はフランスにカブれます。)実際幸宏さんはルノー4に乗っていましたね。1980年のYMOライブビデオで会場入りするシーンで確認ができます。その時細野さんがアルファロメオのスッドに乗っていたこともびっくりですが。
そしてトッドラングレンのカバーである「I saw the light」、あとはラストナンバーの「今日の空」なんか好きで聴いていました。
そんな感じで良い意味でYMOの後遺症状態だった1985年までの熊太郎でしたが、その後徐々にYMOは過去のものになっていきました。
サディスティック・ミカ・バンド再結成の1989年
しばらく経った1989年。伝説?のバンド、サディスティック・ミカ・バンドがボーカルに桐島カレンを迎え再結成します。
ボーカルは桐島カレン。マツダのファミリアのCMタイアップ曲「Boys & Girls」がTVで流れます。Dr.はもちろんの幸宏です。
過去の幸宏作品を聴く
バブル期のミカバンドを聴いた熊太郎。タイムスリップしてオリジナルの作品を聴くようになります。(熊太郎は大学生)
この頃新宿通りの3丁目の交差点の手前に名前忘れちゃったけど大きなレンタルCDショップがあって、結構な品揃えだったんだよね。
そこでこういったマニアックなCDを借りていました。貸しCD屋さん、もう今じゃ見る影もないですけどね。幸宏のソロの「Saravah!」も聴きましたよ。
今回のブログタイトルにサラヴァとつけましたが、このアルバムの題名に意味はポルトガル語で「祝福あれ」という意味だそう。
Hot Menu 懐かしい!カセットテープで聴いていたなぁ。
幸宏が携わっていた曲。どれもこれも熊太郎の10代の頃を思い起こさせる懐かしい曲ばかり。
脳腫瘍を発症し、軽井沢で療養していたようですが、今回の訃報、70歳はあの世に行くにはちょっと若いよね。残念です。
YMOメンバーの坂本龍一氏も現在闘病中ということで良くなってほしいものですね。
<2023年3月28日 坂本龍一氏も亡くなってしまいました。残念です>