前回はおじさん沖縄一人旅の全体行程についてさらっと書き残したんだけど、今回からは何回かに分けて個別の訪問について書いていこうと思います。
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山下達郎の曲を聴きながらレンタカー屋さんへ行く
那覇空港に到着してニッポンレンタカーのバスに乗せられしばらく南下。レンタカーの受け取り場所に向かった。沖縄の天気は快晴。気温は32度くらいだったと思う。暑いなーと思ったけど海風の影響かそうでもない。当日の東京の気温の方の方がよっぽど暑い日だったからね。
日曜の午後、渋滞が激しく結構時間がかかる。バスの車内では山下達郎が流れている。達郎の曲なんかかけてくれて沖縄気分を盛り上げてくれているのかな?と思ったら、達郎さんのラジオ、サンデーソングブックが流れているだけだった。でもなんかタイミング良いね。別にリゾート気分を味わうつもりで来た訳じゃないけどね。
予定の倍くらい時間がかかりレンタカー屋さんに到着。
結構待っている人がいる。
今回の旅の相棒は、昨秋の北海道に続きトヨタのヤリスでした。前回は白だったけど、今回は紺色です。
いくつかの訪問を経て沖縄市に向かう
今日の宿は沖縄市の中心部コザエリア。本日の宿は18時以降スタッフが不在となる宿で、その時間までに辿り着かなければならない。
レンタカー屋さんに行くまで手間取ったので巡り切れないところもあったけどいくつかの戦時中のメモリアルエリア訪問した後に沖縄市に向かった。
15時にレンタカー屋さんを出発して、途中2か所立ち寄って、コザに着いたのはギリギリ18時前だった。
今回の宿
今回の旅行は3泊の予定だが、1泊目はコザエリアに宿泊。結構安い宿がたくさんあって熊太郎選んだのはタイムリッチと言う1泊4,800円の宿でした。
宿の外観。これは夜遅く撮ったもの。
十分な設備です。手前のベージュの椅子はマッサージチェアです。
お風呂・洗面・トイレも普通です。これで4,800円ですからね。すばらしい。
熊太郎がコザを訪問した理由
前回述べたけど熊太郎は過去3回沖縄を訪問している。初めて訪問した2000年の頃は今に比べたら街道沿いに英語の看板がたくさん残っていて熊太郎にとってなかなか衝撃的な光景であった記憶がある。
初訪問後沖縄に興味を持ち始め、地上戦が行われた沖縄、そして敗戦後アメリカ統治時代の沖縄に興味を抱き、地元の図書館でその歴史に関する本を読み漁った時代があったんだ。
読んだ本の中で今は絶版になっているのだが、佐木隆三が書いた「わが沖縄ノート」と言う本があった。
https://www.amazon.co.jp/わが沖縄ノート-徳間文庫-佐木-隆三/dp/4195983177
沖縄本土復帰前後のコザに作者が滞在し、コザの状況、特に娼婦との交流や当時の世俗についての実体験が書かれているこの本を読んで、いつかコザを訪問しその現場をこの目で見てみたいと思っていた。その目的を今回果たせるのであります。でもこの本の時代からすでに50年。熊太郎が読んでから20年経っているだけに、そういった面影が残っているのか?と思いつつ今回の訪問となった訳であります。
過去図書館で借りて読んだこの本。今回の訪問に際しおさらいをしておきたくてメルカリで「わが沖縄ノート」を購入し通読した。もちろんこの本を携行しましたよ。
コザを歩く
宿に荷物を置き、まだ明るい18:30ごろのコザの街を歩き始める。
まずは向かうはコザ十字路である。
嘉手納基地の門前町と言えるコザの街。中心は宿泊ホテルのあたりなんだろうけど、このコザ十字路近辺はアメリカ統治時代米兵向けの一大歓楽街だった。ありていに言えば売春街。
その後、米軍は米兵に対する規制を強化し、この一大歓楽街は対象を一般向けに変えていった歴史がある。
何せコザ十字路の北側の地名は「吉原」だからね。もうそのものだったのだと思います。
このように扉を見れば想像がつく作り。
アルミっぽい銀色の扉が1つの建物にいくつもついている。
途中ネコがお出迎え。沖縄の旅を通じてたくさんの野良猫に会ったよ。
アムステルダムの飾り窓の沖縄版ってとこですかね。
でもね、その後読んだ別の本によれば2010年ごろ大規模な浄化運動があり、今はほとんどが店じまいしてしまっているようです。暗くなってから訪問したしたわけではないので実際のところはわかりません。勇気ある方、行ってみてください。
今度は十字路の南側にある銀天街という古びた商店街に立ち寄る。
こちらの入り口から入っていくと銀天街という商店街が広がっている。その昔、こちらの照屋地区も歓楽街でした。
日曜の夕方だったからかもしれないけど、完全なるシャッター街でした。通常はやっているのかな?
戦後の沖縄、コザに限らない話だけど住民の性被害は結構あって、しかも襲われて殺されてしまう事件もあった。性の防波堤的な意味合いでこういった歓楽街(特飲街)の存在意義ってあったと思うんだよね。今のウクライナだってそうだけど歴史的に強者は弱者を虐げるからね。人類の悲しい歴史だよ。
コザ中心街に戻る
さっき来た道をホテルに向かって戻っていく。
途中廃墟かなと思って 通り過ぎたボーリング場のネオンが点灯していた。 ちゃんと営業していました。
※残念ながら2024年3月に閉店となってしまいました。
スロープの下の方は雑多な資材が置かれていて営業していそうになかったんだけどね。
BCストリートを歩く
次は夕飯の場所を探すのを兼ねて、中央パークアヴェニュー(BCストリート)からゲートストリートの間を散策してきます。BCストリート、多分ビジネスセンターの略と思いますが異国っぽい街並みの通りを歩いていく。
この辺りは日曜日の夜でもお店が営業していた。夕飯を食べる場所を探し始める。
いくつか賑わう居酒屋を横目にしながらゲート通りに向かう。
これは胡屋十字路。これを右手に向かえば嘉手納基地。そこがゲート通りである。奥の建物はコザ・ミュージックタウン。さすが沖縄音楽発信の街。ちょうどこの時はアニメキャラのイベントが行われていた。
まだまだ英語の看板が目立つゲートストリート。Tatto屋さんが多い。実際外国人女性が刺青を彫っていたよ。
これはゲート通りからBCストリートに向かう商店街。いくつかの居酒屋が営業していた。
今回訪問したショーリの店さん。ショーリってなんだろうって思ったらお店の人の名前(ニックネーム?)だった。
これは営業終了後の写真。
フーチャンプルー
ニンジンサラダ(これスティック状のポテトチップスとMIXしていて食感が面白かった)
そしてオリオンビール
とてもリーズナブルでした。
コザ暴動の地
翌朝次の目的地に向かう前に胡屋十字路を撮影した。
ここは1970年に米軍の様々な犯罪にたまりかねた沖縄住民が大規模な暴動に発展した場所。
性犯罪のみならず、交通犯罪、強盗など様々あったのに罪に問われない、もしくは問われても軽微なものだったようだからね。
この右手奥の嘉手納基地方面(ゲートストリート)から左奥の国道330号線那覇方面にかけてたくさんの米国の車が焼き討ちにあった場所。
今は寂れちゃっている感が強いけど、沖縄の歴史に出てくるこのコザの地を訪問できたことに一人旅を許してくれた家族に感謝です。