国内旅

おじさんの沖縄一人旅の話 4 沖縄戦跡と首里城修復編


おじさんの沖縄一人旅シリーズ 今回は、1日目から2日目にかけて巡ってきた沖縄地上戦の戦跡スポットについての話に加え、現在修復中の首里城の状況についてレポートする。

民間人を巻き込んだ第二次大戦ー沖縄地上戦

大戦末期、本土防衛の捨て石となった沖縄。約20万人あまりの人が亡くなった悲惨な沖縄戦。米兵戦死者12,500人、日本兵の戦死者66,000人、一般市民の死者94,000人(琉球新報HPより)。この数字だけ見ても悲惨極まりない。埼玉県民的には20万人って言ったら春日部や熊谷の住民全員が亡くなるのと同じよ。(両市とも人口22万人くらいです)

沖縄戦の詳細は熊太郎が不正確なことを書くわけにもいかないので、琉球新報の特設ページをご覧ください。

熊太郎、過去いわゆる平和学習ってしたことなかった。中高の修学旅行は京都奈良だったし、沖縄に過去3回訪問したけれど、ガマに一回立ち寄ったくらい。

今回は気ままな一人旅。自分の行きたいところに行けることもあり、重点的に訪問することにしたんだ。

旧海軍司令部壕

旧海軍司令部壕は那覇空港から車で15分くらいのところ、小高い丘の中に手堀りで掘られた地下壕である。

海抜74mということで74高地とも呼ばれたこの小高い丘のエリアに作られった海軍の壕をまず見学する。丘の頂上付近に車を止め、入り口を探す。

7月の沖縄、灼熱の関東地方よりはまだマシだが、暑いー。

見晴らしはとても良く、遠くに海も見える。

施設の中に入る。壕に入る前に資料展示エリアがある。こちらは沖縄戦、というか太平洋戦争全体の歴史について説明がなされた展示エリア。

最近発掘された遺留品の展示もあった。

まだ夏休みが始まっていない日曜日の夕方ということもあって、人はまばらだった。その中で目を引いたのは外国人、特に西洋人で英語を話している家族がいたことだ。しかも小さい、それこそ小学校低学年位の子供を3人ほど連れたお父さんらしき人が子供らになにやら説明をしていた。米軍の関係者だろうか。

この悲しい歴史を背負う沖縄について後世に語り継ぐのは重要であって、これは日本人でも外国人でも同様だと思う。

この写真この海軍壕の丘の写真。もはや艦砲射撃を受けてハゲ山ですよ。

進軍する米軍。説明文に「M7戦車」とあったけどシルエットからしてこれはきっと「M7自走砲 プリースト」だね。

参観券600円を払い、いよいよ地下壕へ。

この丘の上の入り口からずーっと下に降りてって、出口はこの山の中腹にある。

階段を降りていくと、司令部の会議室や士官たちの部屋、通信施設などがキレイに残っている。これを手掘りってスゴい労力を費やしたなという感じ。

中はもう迷路のようになっていて、案内サインがないと迷ってしまう。外気は30度以上あるのに比べひんやりしているのは空調のせいか?当時は数千人が退避していてものすごい湿度だったらしい(HPより)

途中トンカン音がしたのだが、作業の方が修復ないしは発掘作業をしていました。まだ色々出てくるんだろうな。

戦闘終期、大田少将が海軍次官に宛てた電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ」という県民の献身的な協力に対する言葉を残してくれたことがせめてもの救いだったと思うよ。当時の偉い人がちゃんと沖縄県民のことを伝えなかったら、今以上に沖縄県民は大変な思いをしていたに違いない。

シュガーローフの丘

次はモノレール沿線方面に行く。

モノレール「おもろまち」からすぐのところにあるシュガーローフの丘。

知っている人は言わずもがな、知らない人は通り過ぎるだけの戦跡。

沖縄戦の激戦地。Wikiとかでその戦闘経過を読むとホント戦争ってイヤだなと思う。約一週間の間、日米がこの丘で攻防戦を繰り広げた場所。

行ってみるとその場所は新都心と言われる場所の真ん中にあった。

そこに給水塔がポツンと設置されている小高い丘があり、周りは削り取られた感がある。階段を上っていくと見晴らしの良い場所になっている。

小高い丘と言えば丘。

上には、給水塔があるだけ。ぽつんと1つ激しい戦闘が行われたことを示す説明書きが置かれていた。

こちらは日本軍が待ち構えた側の風景。

当時の写真を見ると、75年前は草木も焼け焦げた禿げ山。それが今やこんなに繁栄しているんですからね。我々は先人が苦労された悲しい歴史を経て繁栄しているんだなと思う。戦争なんてやるもんじゃないと改めて思う。

この場所で日米で何千人と死傷しているわけですからね。

きっとまだ回収されていない遺骨や不発弾なんかもあるんでしょうねぇ。

首里城の現在

お次は沖縄2日目に訪問した首里城。2000年に訪問して以来23年ぶりの訪問。

残念ながら2019年に焼失してしまった首里城の現在を見ようと立ち寄り。

車は立派な地下駐車場に停められる。灼熱の外に停めずに済むのはGOOD。月曜日の訪問だったのでここも人が多くない。目につくのは中国語を中心に外国語を話す方々。沖縄には台湾や韓国から直行便出ているからね。

 

守礼門。

23年前小さな子供を連れてどうやって正殿に辿り着いたのか全く覚えていない。

2000年12月に世界遺産登録

丘の上だけに見晴らし抜群

さて、焼失してしまった正殿・御殿エリアはこのように再建に向けた大きな作業建屋が建てられていた。

横から覗けるようになっていて、木工作業が行われていた。このエリアすごい木の匂いがした。

2026年の完成に向けて作業が続く。

さて首里城エリアに来たのはもちろん再建状況を見学しに来たのであるが、もう一つ目的があった。

第32軍司令部壕

守礼門から少し歩いたところにそれはある。

第32軍司令部壕。

牛島中将が指揮する32軍の司令部があった場所。防衛線が破られこの司令部壕を自ら破壊し、沖縄南部に転進する。

それが南部に避難していた住民を巻き添えにしてしまう。

GoProで撮影してみました。首里城の観光客が通らないひっそりとした場所にあります。

糸数アブチラガマ

首里城を後にし、沖縄南部へ向かう。

首里城から南へ15kmほど離れたガマに向かう。2日目のお昼頃。

昼飯を食べる。この旅初の沖縄そば。金太郎さん。後述しますが実は次の目的地のガマに着いた後、Uターンしてこのお店でおそばをいただきました。

月曜の昼。賑わっていました。

全部入り的金太郎そば。900円。

目的地は糸数アブチラガマ。施設の外には黄色いヘルメットがたくさん。実はココ、平和学習ということで学校などが集団で見学にくる場所になっているよう。

詳細はこちらのオフィシャルHPをご覧いただくとよくわかると思うし、HPを見ればバーチャルガマ見学ができるようになっている。

ちなみにアブチラガマの
・アブは「深い縦の洞穴」
・チラは「崖」
・ガマは「洞窟やくぼみ」 のことだそうだ。

この沖縄旅の中で、熊太郎はどこかガマの中を見学できる場所を探していた。

 

沖縄本島で「ガマ」と検索すれば上の地図のとおりたくさんのガマがヒットする。

旅の事前調査の段階でこの糸数のガマに狙いを定めていたのでした。でもね、具体的な手続きを出かける前してこなかったのよ。

半ば行き当たりばったりで糸数のガマに辿り着いた熊太郎。上の写真の施設に到着して初めて事前予約、そしてガイドさんがないないと中に入れないということを知った。
別日に出直そうかと思ったら、運良くガイドさんが13時からなら対応可能との温かい言葉を頂いた。(熊太郎は当日予約のような形になりましたが、あくまでイレギュラー対応と思いますので皆さんは事前予約してください!)

ということで見学時間までの間にお昼を食べてこようと思い、Uターンして前述の金太郎さんに向かったのでした。

アブチラガマの施設に入るとこんな感じ。

この扉の奥は学校形式の並びで長いすがたくさん置いてあり、ここで説明を受けられるようになっている。

このガマで収集された遺品などが展示されている。奥に貼ってある「命どぅ宝」(命こそ宝)という言葉が重く感じられる。

手前は頭部保護用のヘルメット、そして有料だが受付で懐中電灯を貸してくれる。

そしてガイドさんとお会いする。熊太郎一人だけの見学者。プライベートガイドである。入場料300円、ガイド料1,500円、そして懐中電灯代がかかります。

一緒にガマに入っていく。ガマの中は撮影禁止。まぁあまり撮影したいと思う場所じゃないけれど。入り口は狭い。いきなり岩がヘルメットに当たる。

中は屈まないといけないエリアもあるけれど、広大な空間があるところも多い。

懐中電灯があるから良いけれど、電灯を消すと真っ暗。漆黒の闇とはまさにこのこと、という位全く見えない。

こんな中で数ヶ月過ごしているなんて耐えられない。

全長270メートルのガマの中を歩いて行く。ガマの中で、助かる見込みのない人たちをある意味”捨て置く”エリアの話や麻酔もなく手術をしたような話を聞く。当時の特に住民の方々の悲惨さを思わずにはいられない。

そんな折真っ暗な洞窟の中で話を聞いている時にホタルが2匹飛んでいた。

ガイドさん「蛍が飛んでいるの珍しいですねぇ」

もう熊太郎的には魂にしか見えなかったです!

そして最後階段を上って出口に辿り着きます。

その時の光の眩しさを感じた時、ちょうど7月上旬の同じ頃同じような眩しさを感じてガマから出てきたんだろうなぁと思ってしまいます。

こういう見学体験てバーチャルでもいいんだけど学校でやったほうがいいと思うんだよね。戦後75年を越え、どんどん戦争体験者がいなくなってしまう時代ですからね。

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