音楽

カシオペアと熊太郎の歴史を振り返ってみた

2月10日にCASIOPEA-P4のファンミーティングに行ったんだ。そこで35年ぶりに生の野呂さんを見たことを機会に熊太郎とカシオペアについてまとめてみました。私的まとめ記事な点ご容赦を。

熊太郎がCASIOPEAを知ったきっかけ

前述のとおりカシオペアP4のライブに行ったんだけど、熊太郎にとってカシオペアのライブに参加したのは実に35年ぶり。2024年初め、株価が34年ぶりにバブル期最高値を超えるか!なんてニュースやっていますがそれとほぼ同じ期間ですよ。

1980年代の中ごろ。いわゆるCASIOPEA(カシオペア)全盛期と言われる時代、高校生の熊太郎はカシオペアと共に過ごしたと言っても過言ではないくらい傾倒していた。AIWAのカセットボーイ(ウォークマンはSONYの商標ですのでね)で聴きながら登下校していたな。
The Squareと共にフュージョン人気の中心にいたカシオペア。当時のライブ会場はどこも満席だったもんね。ただイマイチ女の子受けが悪く、女子とフュージョンの話をしても盛り上がらなかったけど。。

熊太郎がカシオペアを知ったのは1984年末〜1985年初め。アルバム「Down Upbeat」が発売され、TVではMaxellのビデオテープのCMで「The Soundgraphy」が流れていた頃。→YouTubeで探せば出てきます。

これもYouTubeで検索すれば出てきますが、1984年末にNHKホールで行われたライブ映像が正月だったかTVで放送され、偶然それを観ていた熊太郎は大きな衝撃を受けます。パスティーシュというコーラスグループがゲスト参加していたライブね。
当時頭の中の大半が散会直後のYMOだった熊太郎にその超絶技巧かつメロディアスなインストミュージックに釘付けになったのでありました。

と思ったらもっと前に熊太郎はカシオペアに出会っていた。それは1983年年末。

YMOの最後のオリジナルアルバム「Service」。熊太郎はリアルタイムにこのアルバムを購入したのですが、そのアルバムの中に入っているS.E.T.(スーパーエキセントリックシアター)のコメディのBGMに「Time Limit」が使われていて、それを熊太郎は無意識に聴いていたのでした。YMOもカシオペアも同じアルファレコードでしたからね。

さてさて、その後熊太郎は過去のカシオペアのアルバムを当時大宮東口にあったレコード屋で買い集め、往年のカシオペアファンの皆さんもそうだと思うけど、「MINT JAMS」や「サンダーライブ」のアルバムに衝撃を受けた訳ですよ。

CASIOPEAライブ 参加の歴史

今回のファンミーティングに参加した夜、家の中を探して出てきたのがコレ。

1985年、高校2年の夏、初めてカシオペアのライブに行った時のチケット。
39年前のチケットが家に残っていた(笑) 生涯初めてのライブ参加でもありました。場所は「よみうりランド オープンシアターEAST」。調べたら2013年に閉鎖になっちゃったんだね。スポンサーがいすゞ。いすゞジェミニをPRしていたような朧げな記憶が。このチケットの上部にGEMINIって書いてあるね。

まだライブ会場は閉鎖されてしまったけれど、公式WEBサイトに座席表が残っていた。S席があるので最前列じゃないけれど、かなり前の方の席をゲットしていたんだな。正面右手なので向谷さんの前あたりだったんかな。

この券面を見てすごいなと思うこと2つ。チケット代がなんと3,500円!今の相場の半値以下w
そして発券場所が大宮のダイエー(今のDOMのところね)であることだ。インターネットなんてない頃だから学校帰りに「チケットぴあ」のカウンターで申し込んだんだろうなぁ。

こんなチケットも出てきた。人見記念講堂でのライブ。これは高校の友達と2人で観に行ったな。その友達とは最近SNSで繋がりまして、音楽話で盛り上がったりしています。

その後一年浪人の末大学生になった熊太郎、1988年4月に発売された「Euphony」の”太陽風”を聴きながら埼京線に乗って大学に通っていたんだよな。

↑オリジナルアルバムの「Halle」まではレコードでしたが、「SUN SUN」からはCDで購入しています。
私事ですが、〜1988年のアルバムの中で1枚目の「CASIOPEA」「SUPER FLIGHT」は持っていない。きっとDr.が神保さんじゃないから後々購入しようと思っていたのだが、その後興味が移ってしまい買わずじまいだったのだと思います。

これが熊太郎が観に行った最後のカシオペアライブ。大学一年生の冬だね。実に35年前!

チケットは見つからなかったけど他にもNHKホールのライブや、1986年12月、五反田にあった「ゆうぽうとホール」に行った記憶があります。(だから浪人しちゃうんだよ。。)

1990年代 だんだんCASIOPEAから遠ざかる

1987年、インストアルバム「Sea is a lady」をリリースした角松敏生。

↑1987年7月1日発売。フュージョン専業アーティストのアルバム以上にフュージョンアルバムw
斉藤ノブさんや村上ポンタさんも参加。当時熊太郎が求めていた音なのかも。
タイトル曲である「Sea Line」や「OSHI-TAO-SHITAI」は近年のライブでも演奏されております。
「The Bass Battle」では櫻井さんがゲスト参加。
熊太郎が持っている数百枚のCDの中でもかなり初期に購入したものです。

この辺りから熊太郎はフュージョン色の強いアーティストである角松敏生の方に興味の中心が移っていまして、インストにヴォーカルをフィーチャーした音楽を試みていたCASIOPEAへの興味は薄くなっていきます。メンバーチェンジが行われ、あの鉄板4人の演奏が聴けなくなってしまったことも大きな理由の1つでした。

1992年発売の「Active」を最後にCDの購入はストップ。カシオペアから遠ざかっていきます。

一方、脱退した櫻井さんと神保さんのユニットJIMSAKUは1996年、当時活動を凍結していた角松プロデュースの「DISPENSATION」をリリース。 結構業界って繋がっているもんだと思ったものです。

↑結婚した頃を思い出すこのアルバム。帯には「笑っちゃうほど上手な人たち」とある。ホントそう。

この後、長い間カシオペアと離れた時代となります。ドラマーの変更、一切活動休止を決めたことなど知っていましたが。

COVID-19時代に再度カシオペアに触れる

2020年初め、コロナウィルスが蔓延します。

この閉ざされた数年間の間、コロナウィルスがカシオペアとの関係を再び近づけてくれました。

この頃ステイホームの流れで家にいることが多い日々を過ごす中、Amazonプライムの契約をしていた熊太郎は暇な時Amazon Music で色々な音楽を聴き始めていました。

そこでCasiopea 3rdの楽曲に出会うのであります。

そこにはメンバーは変わっているものの、往年のカシオペアのテイストが復活していました。

また3rdのライブアルバムを聴くと懐かしの「太陽風」とか「Gypsy Wind」などのナンバーを聴くことができ、再び視聴するにあたり"敷居の低さ”を感じたのであります。

行動制限ということもあって時間があればウォーキングの日々を過ごしていた熊太郎。インストということもあってウォーキングをしつつ楽曲を聴く日々が続きます。

80年代のフュージョン、人気の双璧だったThe Square(T-Square)も同様に近年のアルバムを聴き始めたのであります。

ミュージシャンは永遠ではない

コロナウィルスが蔓延した初期、まだワクチンもない頃、志村けん氏などの有名人が亡くなった。
またコロナウィルスでなくてもこの期間、フュージョン関係で言えば村上ポンタさんやT-Squareの和泉宏隆さんが亡くなっています。話の初めに書いたYMOだって坂本氏と高橋氏は鬼籍に入ってしました。

熊太郎自体も齢50を超え、ライブは行ける時に言っとくべきだと思い始めたのであります。

コロナ蔓延のもっと前の話で言えばラテンフュージョンの松岡直也氏が熊太郎がヨーロッパ駐在から帰国した直後に亡くなってしまいまして、行こうと思えばライブに行ける機会が何回もあったのにも関わらずなんで行かなかったんだろうという後悔をしたことがあったんですよ。

↑松岡直也の出生地「本牧」を旅した話。(メインはクレイジーケンバンドだったけど)

後悔するなら行った方がいい。

大体我が人生において「何かを実行して後悔する」ケースはほとんどなくて「何かを実行しなくて後悔する」方が多いのですよ。

子供も成長して自由な時間が増えてきたということもあり、上記のこともありここ数年積極的にライブに行くようにしています。行けずじまいと言うかチケットが取れずしまいだった山下達郎についても2022年初めてライブに行くことができた(しかも最前列)し、今後も時間が許せば積極的にライブに行くつもりです。

また音楽のライブだけじゃなくてスポーツ観戦とか、広義の”Live”を楽しみたいと思っているのであります。

-音楽